軽自動車K-10、小型車A-5の開発

二玄社 青山順「戦後の日本車 2」

二玄社刊 青山順著 「戦後の日本車2」や、その他の資料によれば、P-1ことスバル1500は20台が製造されたとされている。

 未発売に終わった試作車、たとえば1970年代初めの安全実験車などの特殊な例を除けばかなり多い部類に入るだろう。

 しかもこのクルマの場合に不思議なのは、本来メーカーにとってあまり一般に見せるべきものではない「試作車」でありながら、実にさまざまな「未発表カット」(?)が事ある毎に出てくることだ。

AUTO GALLERY.net スバル1500

例を挙げれば、上のカットは皇居で撮影されたもの。左のカットは、「AUTO GALLERY.NET」という自動車ポータルサイトの「名(迷)車列伝:スバル360(1958年) その4 ケイジュウ参上」というページで紹介されていたカット。荘厳な石積の壁の前での撮影。当時角筈にあった富士重工業本社近辺での撮影か。

 上のカットのP-1とはナンバーと異なっている点に注意。

2003年 三栄書房 モーターファン「スバル・レガシィのすべて」より

そして、上のカットで後ろに見えているのがこのP-1か。

 出自は2003年 三栄書房 モーターファン別冊「レガシィのすべて」である。

 モノクロなので色の判断がつかないが、上の2枚と違って濃色のボディカラーで、ホワイトウォールタイヤを履いていないし、テールフィンがないことが一目で分かる相違点である。

 路面のクラックやシミ、背景の石積から見ると、上のP-1をフレームーの外に出して、少し前方に動かして撮られたもののようだ。シンプルなボディが引き締まって見える。

 製造台数たかだか20台の「試作車」である。終戦からわずか10年後の、現在のように慢性的な渋滞など考えられなかった日本でも、路上でそう出会えるチャンスなどなかっただろうし、第一、カメラなど一般庶民には高嶺の花だった時代である。ということは、ここに挙げた3枚のP-1の写真は当然富士重工業が提供したものということなのだろう。

トヨタなど、まあ一般的にいわゆる「名車」として認知されている「トヨタ2000GT」でさえ、試作分は1966年の谷田部スピードトライアル用に切った貼ったで改造されて、モーターショーに展示された後はあっさりとツブしてしる。現在「トヨタ博物館」に展示されているのは、海を渡ってアメリカの「SCCAレース」を戦った車両をそれらしくリペイントしたものらしい。

 そもそも、モノはそれにどう接するかで、そのモノに込めたその人の情熱なりメッセージがこちら側に伝わってくるものではないか。

 「SCCA仕様」だって貴重なトヨタの歴史の「生き証人」である。そうした自分たちの「生き様」を無下に扱うことができるメーカーを私は信用できないし好きになれない。

スバル 1300Gバン4WD

それは富士重工業にしたってそうなのだが、幸いこのメーカーの場合、周辺に信奉者がいて、永らく保管している「取り巻き」がたくさんいる。たとえば、東北電力の依頼で製作された「スバル1300Gバン4WD」も、富士重工業本体が保存していた訳ではなくて、「オヤブン」こと小関典幸氏のショップ「K.I.Tサービス」が20年以上に亘って大切に保管してきたものだ。

 昨年、どうやら富士重工業本体によるレストアが完了したようで、全国を回るイベントで「シンメトリカルAWD」のルーツに触れることができたスバリストも多いかもしれない。

 実際に実車を拝み奉ると、「あの部品もないし、あの部品もないし・・・」とすぐに頭の中で「欠品リスト」が出来上がってしまうところが悲しい性で、結論としては、「相当新品部品のストックを持っている人でも個人レベルでここまで仕上げることはムリ」。さすがはメーカー本体が手がけただけにすばらしく美しい仕上がりだった。

 脱線したが、そういう意味では、「P-1」に賭けた当時の富士重工業技術陣の意気込みは大変なものだったし、群馬県太田市や伊勢崎市近辺のタクシー会社に特別販売されて、業務に供されたというから、富士重工業としては立派な「市販車」という考え方なのだろう。

 スバルには数々の「革新」を成し遂げてきた技術者の情熱とそれを理解し、送り出されたクルマたちを深く愛する人々がいる。

 そうした人々が存在するということは、技術者の努力やクルマ自体の魅力だけではどだいムリで、その他の先人が培ってきた苦労が今、実を結んでいるということだと思う。

通産省「国民車構想」〜「K-10」スバル360の誕生

1969年 スバル360デラックス

「K-10」こと「スバル360」の開発については、さまざまな形で種々のメディアが伝えているので割愛させて頂きたい。

 ただ、書きたいことは山ほどある。

 「スバル360」は、徹底的にゼイ肉を削ぎ落とした軽量・高剛性の革新的なフルモノコックボディ、新開発のトーションバースプリングによる4輪独立懸架のサスペンション、新開発の10インチタイヤ、粘り強く高出力のエンジンなど、大人4人が無理なく移動できる居住性を確保するために、技術的な制約や妥協を一切廃して新たに部品を開発し、全長3,000mm、全幅1,300mm、排気量360ccという日本の軽自動車規格の制約の中で最適なパッケージングを、戦後わずか13年に過ぎなかった1958年に実現していたのである。

 「スバル360」が日本の自動車技術の進歩に遺した影響は計り知れない。

 ときどき知り合いのK-111を整備で預かることがあるが、その崇高なまでに突き詰められた合理性、機能性、最適化が図られたメカニズム、百瀬晋六氏をはじめとした当時の富士重工業の技術陣の知恵と工夫と、そして費やされたであろう苦労と努力が凝らされたパッケージングを見るたびに、いつも涙が出るほど感動させられる。

 美しい。

 もし「スバル360」が登場していなかったとすれば、どんなに少なく見積もっても、5年は日本の自動車技術の進歩は遅れていたに違いない。それほど当時の日本の自動車産業の技術レベルは、欧米から大きく立ち遅れていたものだったのである。

 「後出しジャンケン」でモノを作ることほど簡単なことはない。トレースする「対象」があればコピーは簡単だ。それは「スバル360」に追随して登場した日本の軽自動車はすべてそうだし、「スバル1000」を徹底的に研究して開発された「アルファスッド」にしても同じこと。

1956年 スズキ スズライトSF

 ただ、「スバル360」のカーボンコピーではない軽自動車が一台だけある。

 それは鈴木自動車工業の「スズライト」だ。

 スバリストにとっては実に悩ましいクルマである。

 それは「本邦初の軽自動車」として、「スバル360」に3年先駆ける1955年に発売されていて、しかも「戦後本邦初の前輪駆動車」としての称号を頂いているのだ!

 くやしいぞ。

 それが、参考としたドイツの小型自動車「ロイトLP400」のコピーに限りなく近いものだとか、「スバル360」ほど徹底した最適化設計をしていないとか、現在の目から「アラ探し」をすることは簡単だ。だがこのクルマの開発が始まった1950年といえば、戦後わずか5年に過ぎないのだ。

 浜松もまだまだ戦争中の空襲による焼け野原が残っていただろう。

 そんな時代に、一台のクルマを作り上げることがどれほど大変なことだったか、それは現代を生きる我々の想像を絶して余りあるものだったに違いない。だからスバリストとして「スバル360」そして「スバル1000」をグッと押しながらも、当時の鈴木自動車工業の技術者たちの情熱とそれに賭けたロマンには脱帽、そして敬服するより他はないのである。

 残念ながら、このクルマに接した機会はまだないけれども、もし叶うのであれば、フェラーリやポルシェよりも乗ってみたいクルマだ。そのメカニズムのひとつひとつをこの手でバラして確認してみたいクルマだ。すばらしいクルマだと思う。

試作車「A-5」〜 そして「スバル1000」の誕生

A-5

ここに一台の見慣れないクルマが出現する。

 クルマの名前は開発コード「A-5」。無論、市販はされていない。市販されていないからどうでもいいクルマという訳ではない。

 このクルマがなかったとしたら、私にとっての「世界一のクルマ」、「スバル1000」はおそらく誕生していなかっただろう。

 「A-5」は「スバル1000」のテストベッドとして発展的に消滅したクルマなのである。


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