「飛行機野郎の追憶」

1975年 富士重工業販促用デモテープ「飛行機野郎の追憶」

この古ぼけた1本のテープは、実はわが家の家宝である。

 1975年、富士重工業が「レオーネSEEC-T」シリーズの発売に際して製作した全編で20分ほどのデモテープで、あの「刑事コロンボ」の吹き替えで有名な俳優、小池朝雄氏が出演。

 内容は、レオーネのユーザーであり「エアロスバル」のユーザーでもある小池氏が、富士重工業の前身である中島飛行機と、かつて自らが見た、中島飛行機の生み出した数々の傑作機について追想するというもの。

 現在ではもはや聞くこともままならない、陸軍一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、四式戦闘機「疾風」、そして「零式艦上戦闘機」=「ゼロ戦」のエンジン音が聞けるというのだから、これだけでも古くからのスバリストにはたまらないが、サン・テクジュペリの「夜間飛行」の語りのなんとドラマチックなことか!

 また、冒頭と末尾に、当時、日本中の話題をさらった「怪人二十面相」のCMがきちんと挿入されているのも秀逸。「SEEC-Tのテーマ」に乗った、不敵な笑い声とともに「信じられるかね明智君」というセリフが懐かしい。回線速度によっては再生まで時間がかかるかもしれないし、かなり音質も劣化しているのだが、興味がある方はぜひお聞き頂きたい。

 実際、小池氏がスバリストであったかどうかは、今となっては知る術もないのだが、富士重工業が生産した軽飛行機「富士FA-200エアロスバル」のユーザーであったことは確かなようだ。

 そして現在、富士重工業の前身が中島飛行機という日本最大の航空機メーカーだったということは富士重工業自身も、そしてメディアもいちいち取り上げて来たのでご存知の方は多いだろうし、現在も富士重工業には宇宙開発部門というものが存在していて、ボーイング777やエアバスなどの機体製造に参画していることもよく知られている。

富士 FA-200 エアロスバル

だが、富士重工業が独自で設計・製造・生産していた「富士FA-200エアロスバル」は、1977年の生産中止からすでに32年。そしてその後のアメリカ・ロックウェル・インターナショナル社との双発ビジネス機「FA-300」の共同開発・生産での無残な失敗から、富士重工業が航空機ビジネスから遠ざかっている現在では、スバルと空とのつながりを口にすることは、正直「こじつけ」ぽっく聞こえる人もいるだろう。

 しかし、スバルの水平対向エンジンの起源を辿るとき、やはり、かつての中島飛行機について語らない訳にはいかない。

 そして、それをリアルタイムで見て、感じ、語ることができる人は、太平洋戦争の終戦から60年以上経過した現在ではもはや数少ないといえるだろう。

 そういった意味で当時「販促品」として配布されたこのテープが、今となっては現在と過去をつなぐ、貴重な「よすが」といえるのである。

 と、こういったことを語り始めると、「スバリストは戦争美化をしたがる」などとトンチンカンな誹謗中傷をしたがる気の毒なネットフーリガンのために、私自身の「太平洋戦争観」と、私自身、戦争反対の意思表示のために自分の時間と少ないながらも私財を投じていることを記しておく。スバリストの方はこれから9行は飛ばして読んで頂きたい。

 明治維新から日露戦争、そして第一次世界大戦至る過程で、日本は西洋の技術を導入することで、鎖国時代には望むべくもなかった飛躍的な近代化を果たしてきた。

 そして「富国強兵」の国策の許、軍需産業の積極的な育成を行い、いわゆる「欧米列強」に比肩する事をひたすら目指し、そしてそれがいつしか国策による戦争へと突き進み、破滅的な犠牲を被ってもなおそれを止めることがなかった当時の軍部を中心とした日本政府に私は強い憤りを禁じえないし、同じ惨禍が二度と繰り返されてはならないと強く願い、祈っている。

 だが、その戦争は大幅な技術革新を促す一面を持っていることも事実である。中島飛行機が平和産業に転じた後、その技術者たちが送り出した「製品」には、確かに中島飛行機で培われた技術が生きていた。その技術者たちの良心に私は感動し、深い敬意を払っている。

中島飛行機の解体〜「富士重工業株式会社」誕生、P-1計画の挫折

1983年発行 スペシャルステージvol.02

中島飛行機は、陸軍九十七式戦闘機、海軍九十七式艦上攻撃機、艦上偵察機「彩雲」、陸軍一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」、アメリカをして「第二次大戦日本戦闘機のベストワン」と絶賛させた四式戦闘機「疾風」など、数々の傑作機を生み出しただけでなく、零式艦上戦闘機いわゆる「ゼロ戦」や「隼」の発動機である「榮」、そして「疾風」、「彩雲」、「紫電改」などに搭載された「誉」などの航空機用発動機、さらに三菱の「ゼロ戦」をはじめとした航空機の生産でも日本最大の規模を誇り、終戦時には25万人もの従業員を抱える巨大軍需産業に成長した。

1983年発行 スペシャルステージvol.03

中島飛行機の歴史については、「中島飛行機物語」という、貴重かつ膨大な資料を基にした記述、そしてスバリストにはおなじみの富士重工業の「世界の名機カレンダー」を飾ってきた小池繁夫氏のすばらしい航空機イラストと併せて中島飛行機の足跡を辿ることができる、すばらしいホームページがあるのでぜひ訪れて頂きたいと思う。

 きっと航空機の設計・製造に賭けた人々の情熱と大空へのロマンを感じて頂けるはずだ。

 また、1983年、スバルモータースポーツグループ(SMSG)発行の「スペシャルステージ」vol.02とvol.03に連載された「メカニカル・エッセイ”THE BOXER”ボクサー物語”星はなんでも知っている”」も、スバリストにとってはとても興味深く面白い読み物だと思う。

戦後、中島飛行機はGHQより航空機の設計、製造、研究などの一切を禁じられ、名称も「富士産業株式会社」に改め平和産業へと転換。中島飛行機の歴史は幕を閉じた。そして、1950年(昭和25年)、財閥解体によって「富士産業株式会社」は12社に分割され、終戦後の混乱期、各工場の技術者たちは馴れない仕事で糊口を凌ぐ日々の中で必死に明日への光明を模索していたのである。

スバル1500(P-1)

その「模索」の中で生まれたのが、中島飛行機の大田・三鷹工場を引き継いだ富士工業の「ラビット」スクーターであり、伊勢崎工場を引き継いだ富士自動車工業のフルオーバーキャブのリヤエンジン・フルモノコックのバスボディであり、大宮工場を引き継いだ大宮富士工業のバイク「ハリケーン」、三輪車「ダイナスター」だった。

 そして、富士産業解体直後の1951年(昭和26年)、中島飛行機の発動機開発の拠点だった荻窪・浜松工場を引き継いた富士精密工業から、スバリストにとっては伝説の技術者である、あの百瀬晋六氏が在籍していた富士自動車工業(伊勢崎)に話が持ち込まれ、開発が始まったのが、左のスバル1500(P-1)だった。

 のちに紆余曲折を経て「プリンス自動車」となり、「スカイライン」、「グロリア」といった乗用車や、「R380」、「スカイライン2000GT(S54型)」、そして日産自動車との合併後「スカイライン2000GT-R(PGC10・KPGC10・KPGC110型)」を生み出し、日本のレーシングシーンをリードしていくことになる富士精密工業は、当時「FG4A」型エンジン(OHV・水冷直列四気筒・1,484cc・最高出力:48ps/4,000rpm・最大トルク:10.0kg-m/2,000rpm)を当時すでに完成させ、このエンジンを搭載した乗用車の設計を富士自動車工業に打診、富士自動車は百瀬晋六氏を責任者とする開発チームを編成し、1952年10月に試作第一号車が完成、走行試験を重ねながら熟成が計られていった。

 このままいけば、「スバル・スカイライン」や「スバル・グロリア」といったクルマが誕生して、現在に至るまでの国産車の歴史も自動車業界の勢力図も大きく違うものになっていたはずなのだが、もちろんそうはならなかったことは皆さんご存知の通りである。

 ではなぜそうならなかったのか?

 それは戦後の混乱期の中で、富士精密工業がその資本をブリヂストンに握られてしまっていたからである。ブリヂストンの創始者、石橋正二郎氏は、この旧財閥・中島飛行機グループの再合同に強い難色を示したといわれている。

 また、1952年、保安庁(現在の防衛省)が採用を決定したパイロット育成用の練習機アメリカ・ビーチクラフト社「T-34メンター」のライセンス獲得を巡って、旧・中島飛行機グループは再合同の動きを活発化しており、1953年5月には、GHQより1952年(昭和27年)3月に宇都宮飛行場の接収解除を受けた「宇都宮車輛」を加え、1953年7月には航空機事業を柱とする「富士重工業株式会社」が発足する一連の流れの中で、富士精密工業を積極的に再合同に取り込む「根回し」あるいは「工作」といったものに費やす資本的・時間的余力がなかったという事情があった。

 富士重工業初代社長の北謙治氏は、P-1の完成にあたって、新型車に「すばる」という名前を与えた。

 「すばる」とは牡牛座の六連星(むつらぼし)。「古事記」や「枕草子」にも著わされた美しい古語である。

 それは、旧・中島飛行機の6社、すなわち富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車両、富士産業、そして富士精密工業が再び集い誕生したクルマであることを高らかに謳ったものだった。

 1955年(昭和30年)4月1日、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輛、東京富士産業の5社を吸収合併する形で新生「富士重工業株式会社」がスタート。

 「六つ目の星」は、5社を吸収合併する「富士重工業」である。

 スバルの「六連星」誕生の裏には、再合同を巡るかつての仲間との訣別という悲しい物語があったのだ。

 こうした経緯を辿り、富士精密工業からの「FG4A」エンジンの供給は途絶え、代わって大宮富士産業製のエンジンが搭載されること決まった。

 大宮富士産業製エンジンは水冷直列四気筒・1,485cc・最高出力:55ps/4,400rpm、最大トルク:11.0kg-m/2,700rpmの性能を発揮、富士精密製「FG4A」に比べ高出力、しかも軽量だったといわれている。

 1955年(昭和30年)に入り、大宮富士製エンジンの開発スピードは速められた。だが、当時の大宮富士が作っていたのはオートバイ、三輪車用エンジンであり、乗用車用エンジンを量産するには過大な設備投資を必要とした。

 さらに同年、トヨタ自動車がスバル1500と同じ1,500ccの「クラウン」を、日産自動車が1,000ccの「ダットサン110」を発売。その上、すでにいすゞ自動車がイギリス・ルーツ「ヒルマン」を、やはり再合同の途上にあった新三菱がアメリカ・カイザー・フレイザー「ヘンリーJ」を、日野自動車がフランス「ルノー4CV」をノックダウン生産している状況では、当時の富士重工業の資本力では対抗出来ないとメインバンクだった日本興業銀行(現:みずほコーポレート銀行)が判断。P-1の市販は断念せざる得ない状況に追い込まれてしまった。


このページのTOPへ次ページへ次ページへ

スカパー! レンタルサービスおまかせHDプラン