ハセガワ 1/24 スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(1)

今回は、ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー を紹介。

 今年もまた、ニュルブルクリンク24時間レース の季節がやってくる。

 私自身、実はここまで ニュルブルクリンク24時間レース が楽しいものだとは思ってもいなかった人間なのだが、去年の ニュルブルクリンク24時間レース は本当に楽しませてもらった。

 大雨による 9時間 の 赤旗中断 は余計だったが、レース再開後、冷えたウエットでのタイヤのマッチングに苦しみながら、まだ雨が残る段階でスリックに履き替えてから見せた GVB のあの驚異的な追い上げは、WRX STI が、まぎれもなく世界最速の 2L量産ロードスポーツ であることを全世界に強烈に印象付けた。

 この ロードスポーツ = RS という、現在もなお WRX STI のカタログに表記される言葉は、もちろん、私が愛してやまない BC5 レガシィRS の 「RS」 であり、アメリカでの GC型インプレッサ、あるいは BE/BH型レガシィで展開された 「RS25」 の 「RS」 である。

 それは、お茶漬けのように作られた レーシングプロトタイプ = レーシングスポーツ ----- 「レーンシュポルト」と言ってもいいかもしれないが ----- とは、もうまるっきり 「生き方」 が違うことを意味している。

 あくまでも 「量産車」、そして 「乗用車」 でありながら、そういう 「レーンシュポルト」 や、世界の スーパースポーツ と伍して戦える、という 「事実」 の証明であり、そしてそういうクルマを 量産車 として送り出しているという 「スピリット」 の体現そのものであるといえるだろう。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(2)

富士重工業 と レース というものの 「関係」 について考える時、「量産車」 というものの存在を切り離して語ることはできない。

 1980年から始まった チームスバル の レオーネ による サファリラリー参戦 ひとつ取っても、アフリカのサバンナに立った レオーネ は、当時店頭で買い求めることができた レオーネ に毛が生えた程度のチューニングで、TC (タイムコントロール)まで辿り着かなければサービスすら受けられない貧弱なチーム体制の スバル に対し、トップカテゴリーのラリースペシャル で、ヘリコプターやチェイスカーによる 「大量物量作戦」 による手厚いサポートで勝利を目指す大メーカーのワークスからは毎回笑われる始末だった。

 だが、毎回「終わってみれば」、あれだけ 「いた」 はずのモンスターたちはアフリカの大地に飲み込まれて消え、辛うじて生き残ったそのモンスターたちのすぐ後ろには必ず、大ワークスの 「物笑いの種」、レオーネ がいたのである。

 言い換えれば、スバリスト の立場から言えば、毎回、リザルトに残った レオーネ の上を見れば、そこにいるのは、手厚いサポートに守られた、とても 量産車 とは似ても似つかない 「スーパーカー」 数台しかいなかったという訳である。

 これが スバル だ。

 それは、富士重工業 が、その 自動車メーカー としてのはじまりに、スバル360 や サンバー という 「人々の生活に役に立つ道具としてのクルマ」 を送り出すことで、地歩を固めていったことと無関係ではない。

 当時の日本の未舗装で穴だらけ、石がゴロゴロ転がっているような 「」 を、人や物を載せて快適に移動するために、車体は丈夫で堅牢、エンジンは粘り強く、扱いやすく、構造も簡潔で、壊れてもメンテナンスが容易で丈夫で長持ち、という、富士重工業技術本部 の 「哲学」 に対して、1レース走って1番でゴールするために、乗用車としての 「本来の機能」 すべてを犠牲にする考え方など、とても相容れないものだったに違いない。

 そんな 「水物の勝負」 に賭ける レーシングマシン を開発している暇があったら、もっと人々の役に立つ乗用車を作るために自らを磨け、というのが 富士重工業 技術本部 の技術者たちに今も受け継がれる 「DNA」 なのであり、すべての製品に流れている 「哲学」 なのである。

 だから、レースに出るのであれば、量産の段階でしっかりと勝負になるだけのポテンシャルを備えていることが 「当然」 で、レース とは、あくまでもその 量産車 の性能を証明できるものでなければならない。量産車 から遠く離れたカテゴリーのレースには関心がない。

 「お客の手に渡るクルマの性能を実証できるのでなければやる意味がない。」

 それもまた 富士重工業 であり、スバル なのである。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(3)ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(4)
ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(5)ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(6)

そんな 富士重工業 がまざまざと レース の恐ろしさを思い知らされたのは、1963年、国際モータースポーツルールに則して開催された、日本で初めての サーキットレース である 「日本グランプリレース」 だったろう。

 1958年 の発売以来、地道な改良を続け、ライバルの登場にも王座はびくとも揺るがず、性能も販売実績も、まさに 「軽乗用車の王様」 として君臨する スバル360 に 「死角」 などあるはずもなかった。

 だが、フタを開けてみれば 「まさか」 の惨敗。

 今では考えられないことだが、翌日から 東京・丸の内 にあった 富士重工業本社 の電話には、ユーザーからのレース結果に対する苦情や抗議の声が殺到したという。

 だが、そうした 「苦情や抗議の声」 よりも、おそらく当時の 富士重工業 にとってショックであり、著しくそのプライドを傷つけたのは、「負けるはずのない勝負で負けた」 という重く、深刻な 「事実」 だったに違いない。

 無論、責任者は徹底的な叱責を受けただろう。第一回 日本グランプリ から 2か月後の 7月 、当時の 富士重工業 横田信夫社長 の、翌年 「第二回 日本グランプリ」 必勝命令 が下され、社長直属のグランプリプロジェクトチームが発足した。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(7)

自動車メーカーにとって、本業である自動車の開発・生産と比べれば取るに足りない、モータースポーツ における 「勝利」 の「社長命令」 が下ること自体、尋常ではない。「蚊帳の外」 の人間なら、「やれやれ〜」 と気楽に囃し立てていられる。しかし現場の人間にしてみれば、わずか 1年 で、モーターサイクル で 世界GP を経験しているチームを完膚なきまでに叩きのめさなければならないのである。

 もちろん、富士重工業 にとっても、これが後にも先にも 「唯一」 の先例である。

 これに近いものを探すとすれば、1993年、WRC で、1000湖ラリー での インプレッサ555 の投入を明言していた プロドライブ関係者に対して、「レガシィで勝利するまではインプレッサの投入は認めない」 と突っぱねた、当時の 富士重工業 河合勇社長 の言葉かも知れない。

 私の人生において、1993年 ラリー・オブ・ニュージーランド で レガシィRS の挙げた 1勝 は、他の何にも替えられない、かけがえのない 「喜び」 であり 「誇り」 である訳だが、でもそれは メディア に対して告げられた 社長 としての 「コメント」 であり、「命令」 ではない。

 実際、インプレッサ555 がデビューした 1000湖ラリー の後の、スバル にとって悲しいラリーとなってしまった ラリーオーストラリア では、ロジスティック の関係で、再び レガシィRS で出場している。

 「このままで終わることは許されない。スバル360 の受けた辱めを拭ってやらなければならない。」

 下らないと思うだろうか? 私はそうは思わない。なぜなら スバル360 とは、現在もなお、スバリスト ばかりでなく、自動車の歴史に燦然と輝くマイルストーン であり、シンボル であり続ける存在だからである。

 だからこそ、スバリスト にとって、この1964年 第二回 日本グランプリ T-1クラス レース における 「勝利」 とは、「特別な」 意味を持つ メモリアル なのである。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(8)

この 「第二回日本グランプリ」 に向けて、富士重工業 がどのように取り組んだのかについては、この 9号車 に乗って優勝した 大久保力 氏 のサポートに回り、2位に入った、12号車 のドライバー、親分こと、故・小関典幸 氏 も、各種のメディアのインタビューに対して当時の回想を語っている。

 そして、この ウィナー である 9号車 のドライバー である 大久保力 氏 も、「マイ・ワンダフル・サーキットII 〜鈴鹿から世界へ〜 」 というブログで、この当時の状況を詳細に語っていらっしゃるので、ぜひお読み頂きたいと思う。

 1955年、富士重工業 が P-1、つまり スバル1500 の発売を断念して、K-10、スバル360 の開発に取り掛かり、1958年 3月 3日 の発売までは、ほぼ 丸2年 しか掛かっていない。

 考えてみてほしい、自動車生産など手がけたことのない技術者たちが、未だかつて誰も手掛けたこともなく、したがって 成功例 もない 軽自動車 というカテゴリーで、大人4人が快適に移動できる最適なパッケージングを構築しながら、既存の自動車とは何ひとつ共用部品を持たず、だから、そのひとつひとつの部品から、一から開発して、わずか 2年 で、世界の自動車の歴史にその名を遺す、傑出した一台の クルマ を作り上げたという 「事実」 を。

 「情熱」 だけで優れた自動車を作ることはできない。「技術」 だけでも不可能だ。さらにその上に、使われるすべての技術に精通した知識、そして、その各々の技術を組織がどこまで高められるかを見極め、それをひとつにまとめ上げる透徹した知性と経験、そして卓抜した統率力が必要だ。

 このことを想う時、当時の 富士重工業 の 技術者たち への 畏怖 と 尊敬 の念はますます深まっていく。

 レーシングカー、あるいは スポーツカー なら、犠牲にできるものは数多い。だが 「量産車」、そして 「乗用車」 という 「タガ」 を嵌めた時、求められる エレメント の数と越えなければならないハードルの高さは、そんなクルマとは比較にならないほどに高くなる。

 量産車、そして 乗用車 で最も大切なのは 「バランス」 だ。

 「上質だ」

 メディア や 評論家 が好んで使いたがる、この曖昧で掴みどころのない抽象的で無意味な 「便利な言葉」 では、語り尽くすことなど到底できない 「深い世界」 である(笑)。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(9)

大久保氏 の回想によれば、1963年 5月 3日 に受けたの 「屈辱」 のその時から、盆も正月も、夜も昼もない開発が始まったらしい。

 特に、当時のエンジン開発の拠点だった 三鷹工場 の技術者たちにとっては、ライバルとのエンジン性能の違いが、レースおける最大の 「敗因」 だっただけに、自らの見通しの甘さに対する憤懣やるかたない想いと、翌年の 第二回日本グランプリ に向けて、必ず捲土重来を期すという決意は、他の部署よりも固く、深いものだったろう。

 トップスピードを稼ぐには、一にも二にもまずパワーである。スバル360 が、すでに開発の段階で、徹底的な軽量化を果たしているとはいえ、モーターサイクル とは比較にならないほど重いボディを動かすトルクを確保しながら、キャブレター吸気の 2ストローク 360t の ピストンバルブ のエンジンで狙える出力は 30ps後半。

 だが、ライバルは モーターサイクル 世界GP 経験チームである。必ずそこまでは来る。

 その上を狙わなければならない。ではどうするのか?このあたりの当時の三鷹工場の技術者たちの 「試行錯誤」 も、きっと、この スバル360 第二回日本グランプリ仕様 のエンジンをバラしてみれば興味深いものがあるだろう。

 大久保氏 の回想によれば、エンジンでは強制冷却用のシロッコファンの羽根を減らしてクランクの回転フリクションを軽減する、そして、フリクションを軽減するという意味では、第二回日本グランプリの2か月後、1964年7月 から生産車にも採用される、ガソリンとエンジンオイルを別々に補給する 「スバルマチック」 に繋がる技術が投入されているはずだ。

 燃焼室の形状を変更することによる圧縮比の増大とキャブレターを中心とした吸気系のチューニングは当然だが、2ストロークエンジンではエンジンの出力特性に決定的な影響を与えるマフラーチャンバーの形状、そしてトランスミッションではオイルの撹拌抵抗を低減するために、トランスミッションオイルを抜いて、二硫化モリブデンなどの添加剤で潤滑する。ダイナモの駆動ベルトを切るなど、徹底的な高出力化、低フリクション化が図られていることが氏の回想からも容易に理解できる。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(9)

雪辱に燃える三鷹の技術者たちによる徹底的なチューニングによって、エンジンの出力は日増しに見違えるように高まっていった。。

 鈴鹿サーキットでの走行テストは各メーカーの占有の申し込みが殺到してなかなか実現せず、そのために、当時の 榛名山有料道路 を午前3時などの夜中に借り切って、のべ 120日間 にも上りマシンのチューニング、セッティングの確認を行ったのだという。

 当時の 富士重工業 は、群馬工場に小さな走行実験用の敷地があるだけで、テストコースを持っていなかった。この時にその必要性を痛感したのだろう。第二回日本グランプリの後、1964年11月 、群馬工場内にふたつのバンクを持ったオーバルコースを主体としたテストコースが竣工している

 これは私など、プライベーターにとっていつも泣き所なのだが、本番のコースを普段は自由に走ることが叶わない。だからある程度 「見込み」 でセットアップして、いざ本番に臨んでみると、全然見込み違いのセットアップを施していた、なんてことは 「よくある話」 で、必勝を義務付けられたワークスチームにとってはフラストレーションが溜まったことだろう。

 年が明けて、1964年3月頃には、EK32型エンジンは リッターあたり100ps の壁を破り、レース直前の 5月 には、38ps、40ps、42ps という、いずれにしても恐るべきパワーを絞り出す、3種のチューニングに到達していたという。

 さらにブリヂストンの開発になるタイヤのグリップも格段に向上し、こうなると車体側の改良も急務で、3月には、大久保氏が鈴鹿サーキットのデグナーコーナーで、車体の剛性不足が原因と分析する転倒によるクラッシュに見舞われている。

 大久保氏 が3日ほどの静養で済む軽傷で済んだことは、まさに 「奇跡」 だったとしかいいようがない。

1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス レース

そして、1964年 5月 3日。「運命」 の 第二回日本グランプリレース 当日。

天候は快晴。2回 の予選走行で 見事に 大久保氏 の スバル360 がポールポジションを獲得。2位にも 小関氏 の スバル360 が続き、フロントロウふたつを スバル360 が占めるという幸先の良いスタートとなった。

 ただし、5位までがわずか1秒差の中にひしめき、3位 の 片山義美 氏 の マツダ キャロルと 大久保氏 のタイム差は、わずか 0.8秒 という超接戦である。

スタンドは超満員の観客で埋まった。各車がそれぞれのグリッドに止まる。

 スタート1分前のコーションが入る。静寂のスタンド。そして覇権を競う各メーカーのピットの張り詰めた空気。こだまするように高まっていく各車のブリッピング・エキゾーストノート。

 レッドシグナルが点灯。そしてグリーンシグナルへ。

 スタートだ!

1964年 第二回日本グランプリ T-1クラス レース
1964年 第二回日本グランプリ T-1クラス レース

スタート直後、2台の スバル360 は、片山氏 の キャロル の先行を許した。それは、スバル360 より車重の重い キャロル では、車重の不利をローギヤードのギヤリングで補う必要があったからだ。

 やがて2台の スバル360 は キャロル を捉え、抜き去った。第一コーナーにトップで飛び込んだのは 大久保氏、そして 小関氏 の スバル360 がそれに続く。

この時点で、メーカードライバーである 小関氏 は、後続をブロックすることで 大久保氏 を先行させるサポートに回ることが決まっていた。

 だが、その目論見はあっさりと崩れた。小関氏 の スバル360 の搭載する 13番 という高熱価のプラグを装着する EK32型 スペシャルエンジンは、トップエンドで、しかもわずか 1,500rpm という狭いパワーバンドしか持たなかった。少しでもスロットルを緩めれば、たちまちプラグはカブってしまう。

1964年 第二回日本グランプリ T-1クラス レース
1964年 第二回日本グランプリ T-1クラス レース

1周目で スズライトの先行を許し 3位へ、さらに 2周目 には 4位、3周目には 5位、4周目には 実に 7位 にまで、強力なライバルたちを前にジリジリと後退を余儀なくされていたのである。

 チェッカーフラッグを目指して全力でトップをひた走る 大久保氏 の スバル360。だがライバルだってそう易々と勝たせてくれる訳がない。サポートを失った 大久保氏 の スバル360 に、3台 の スズライト と 2台 の キャロル が 襲いかかる。

「追いかけられる立場って、ものすごく怖くて、寂しくて……。」
 リキさんのレーシング日本史 マイ・ワンダフル・サーキットII〜鈴鹿から世界へ〜

 先行する スバル360 のドライバーズ・シートで、大久保氏 はずっとこういう心境だったと回想する。やるべきこと、やれることをすべてやり尽くし、万全の状態でレースに臨んだとしても、チェッカーフラッグを振られるまでは何が起こるかわからない。それが 「勝負」 であり 「レース」 というものの 「恐ろしさ」 である。

5周目、小関氏 の スバル360 はエンジンが復調して再び 4位 へ。先行する スズライト 2台 を射程距離に捉えた。

 6周目、小関氏 に ピットから 「スパートせよ」 の指示が出る。42ps / 8,500rpm という圧倒的なスペックを誇る、三鷹の技術者たちが心血を注いで作り上げた EK32型 スペシャルエンジン がついにその牙を剥いた。スズライト 2台 を一気に抜き去ったばかりか、この1周で 8秒 ものリードを奪った。

1964年 第二回日本グランプリ T-1クラス レース

役者が違う。まさに 「別格の速さ」 である。

 このレースでの ファステストラップ はこの周に記録された 小関氏 の 3分 22秒 9 である。

 トップをひた走る 大久保氏 の スバル360 は、その 小関氏 の 6秒先 だ。鈴鹿サーキットでの 7周 のレースで、この差はもはや 「決定的」 だった。だが、フィニッシュラインを跨ぐまでは何が起こるかは誰にも分からない。小関氏 の スバル360 はペースを上げ、後続との差を保ちながら、僚友である 大久保氏 の スバル360 の 「独走」 を静かに後ろから見守っていた。

 最終ラップ、前年の 「屈辱」 から1年。やはり スバル360 の前を走る者はいなかった。

 ライバルに対して圧倒的な 1 - 2 体制を築いた スバル360 のステアリングを握るふたりの男の脳裏には、きっと長かった 「この日」 を迎えるまでの 「1年」 が走馬灯のように巡っていたに違いない。

 そして、チームスタッフ、エンジンを作り上げた三鷹製作所の技術者をはじめとする 当時の 富士重工業 関係者 にとって、この勝利は 「勝利の喜び」 より、すべてのものが、あるべき状態に戻った、というような、むしろ 「安堵感」 に近いものだったろう。

 第二回日本グランプリ から 2か月後 の、1964年7月 に発売された スバル360 65年前期型 では、それまでのガソリンとエンジンオイルを混合して給油する 「混合潤滑方式」 から、ガソリン と オイル を別々に給油する完全分離潤滑方式 「スバルマチック」 を採用して、「高速時代」 の幕開けに対応するとともに、第二回日本グランプリ で培った技術を早くもユーザーに還元している。

 この 第二回日本グランプリ での勝利は、すでに発売から 7年 を迎えていた スバル360 の王座を、さらに揺るぎないものにした。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(14)

スバル360 の プラスティックキット と聞かれて、いつも私が挙げていたのは、イマイ の 1/20 スバルヤングSS 360 だった。

 キットの構成やラインナップから見ても、実車が販売されていた時期からそう離れていない時代のもので、現在、入手できる スバル360 のミニチュアたちのように、変に丸さを強調したり、おちゃらけたりすることなく、しっかりと スバル360 のプロポーションを捉え切っているからだ。

 その代わり、大昔のキットだけに、そもそもそこらじゅうに引けや金型のパーティングラインのズレはあるし、ドア開閉のアクションのせいで、サイドの特徴的なキャラクターラインがズレていたり、後にイマイ から バンダイ に金型が流れた時には、すでに金型の痛みが進んでいたようで、さらにモールドが甘くなっていた。

 だから真剣に鑑賞に堪えるように組み上げるには、ほとんど 日本模型 1/20 FA-200 エアロスバル 並みの執念深さが必要なのだが、さらっと組んでもきちんと ヤングSS に見えるところは、やはり 「時代の空気を吸った」 キットだから、である。もちろん、手がけた職人の技術とセンスも素晴らしいと思う。

 ただ、バンダイがこのキットの製造を止めてから月日が経って、「もうそろそろこの日本の 「国民車」 を、どこか改めて手掛けてくれないだろうか?」と、感じていた折に、ハセガワからこのキットが発売された。

 MF10、L10B に引き続いての発売だったので、ちょっと驚いた記憶があるが、本当に心から嬉しかった。で、中身を見てみて、そのプロポーションの素晴らしさに驚嘆して、改めて嬉しさがこみ上げてきて、安心してしまって、そのまま仕舞い込んでしまった(笑)。

 これこそまさに Confidence in Motion である(笑)。良いキットは作らなくても分かる。人も会社も大切なのは普段の 「行い」 と 「心がけ」 なのである。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(15)

モデルとなっているのは、1968年登場の P52型 スバル360 デラックス と ヤングSS で、前後バンパー のパーツ構成と ホイールキャップ の 絞り がどうにも浅くて 「どうしてこうなるのっ!」(古) と言いたくなるのを除けば、ストレートに組んでも、しっかり スバル360 と それを作り上げた人々の 「偉大さ」 に思いを馳せることができるだろう。

 バリエーションとして待望のコンバーチブル、そして この 第二回日本グランプリ ウィナー が用意されている。

ハセガワ 1/24 スバル360 1964 第二回 日本グランプリ ウィナー パッケージ

実はこれまで私は、この コンバーチブル もこの 第二回日本グランプリ ウィナーも組んだことがなかった。もちろんストックはしていたが、「多忙にかまけて」というのがその一番大きな 「理由」 である。

 この コンバーチブル と 第二回 日本グランプリ ウィナー には、スバリスト にとってとりわけ魅力的なポイントがある。

 それはこの 2台 が、スバル360 のシンボル ともいえる、9本スリットの入った フロントフード と、1965年7月まで生産された 14型 スバル360 以前までの特徴である、8本横スリットのエンジンフードと、小さなテールランプ、リヤアクリルウィンドウの下の給油キャップを、レジン、ホワイトメタル、真鍮削り出しの新パーツを付属することで再現可能としている点だ。

 私はこのキットを手にして、それらのパーツがセットされているのを確認した時、またしても不覚にも涙してしまった。

 1958年 から 1969年 までの 12年間 という、モデルチェンジもないまま消えていくクルマばかりの現在では考えられない、長いモデルライフを全うした スバル360 は、1年に2回のマイナーチェンジを繰り返しながら、ユーザーサイドに立ったアップデートを盛り込み、その時代を超越した基本設計の確かさにさらに磨きを掛けていった。

 言葉を換えれば、世界は、スバル360 を生み出した 富士重工業 の 技術者たちの 深い知慧 に追いつくまでに、10年以上の時間を要してしまった、ということである。

 そういう人々が手掛ける訳だから、そのモデル毎に行われた変更は、とても一人の人間で把握し切れるものではない膨大な数、文字通り 「微に入り細に入る」徹底したものだった。だが、私が子供の頃に入り浸った解体屋でも、積んであるのは 1967年9月登場の P40型以降 ばかりだった。それでも、辛うじてリアルタイムで スバル360 に触れ、親しむことができたことは幸せだと言えるのかも知れない。現在ではそんなことは到底叶わぬ夢だからだ。

 スバリスト として、12年に及ぶ スバル360 の変遷を知り、当時の 富士重工業 の 技術陣 が スバル360 に込めた 「想い」 に触れることができたとしたら、どれほど幸せなことだろう。

私は 「一人の人間では把握し切れない」 と書いた。

 それは間違いだった。

 絶版車の美しいグラビアでおなじみの 芸文社 「ノスタルジックヒーロー」 の別冊として、2009年10月、「SUBARU360 COMPLETE BOOK 〜 スバル360 大全 〜」 という本が発行された。

 それは、1958年 3月 3日、スバル360 がこの世に生を受けて、1962年3月 に 62年後期型 に移行するまでの 4年間 の、文字通り ボルト一本、ビス一本 に至る詳細な変更を、おそらく完全に網羅している。

 クルマ は、そのモデルライフの間に、さまざまな変更が加えられていく。大きな変更 ----- 例えば、新エンジンへの換装など ----- こういうものは、メーカー自身がその目的と効果を説明するだろう。

 だが、自動車全体の構成からすればどうでもいいような部分が変わっていることがある。

NostalgicHero別冊 スバル360大全

例えば、インストルメントパネル裏のつまらない部品の固定方法が、ボルトナットセット、そこにはワッシャーとスプリングワッシャーが介在することがあるかもしれない、それがボディ側溶接のボルト、あるいはナットにワッシャー、スプリングワッシャーというような部品構成の固定方法に変更された、というようなこと。

 ひとつには、こういう部分の変更は、実際に自分の手を汚してバラしてみなければ知ることができない。次に、それが「変わった」と知るためには、その前後のモデルのその部分の部品構成の変遷を知っていなければならない。そしてその部品がその自動車の全体構成、あるいは性能にどのような役割を担っているかを知っていなければならない。

 メーカーがこういう部分に変更を加える時、プレス、塗装、生産ライン、パーツサプライなど多くの要素が絡んでくる。だから、小さな部品の小さな変更が、そのクルマに込められた 「哲学」、場合によってはメーカーそのものの 「哲学」 の 「変更」 を意味することだってあるのだ。

 だから、重要なのは 「変わった」 ことではなく、「どうして変わったのか?」 ということなのであり、その 「意味」 を考えることで、そのクルマを愛する者は、より深く作り手と心を通わせることができるのである。

 メンテナンスは、全部金を払って人任せ、時期が来たら目ぼしいコマーシャルで気に入ったクルマに乗り替えます ----- そういう人たち、ついでに言えば、メディア や 評論家 と呼ばれる類の連中には、逆立ちしたって 「永遠に」 知ることができない世界である。

 スバル の まさしく 「原点」 である、1958年 3月 3日 に発売された スバル360 増加試作型 は、現存は 2台しか確認されていない。私は 富士重工業 所有の1台きりだと思っていたのだが ---- 大阪の 「かの人」 に納車された1号車だろうか? ----- そこを起点に、スバル360 に 富士重工業 技術陣 がどのような変更を加えていったのか、ということを 「知る」 こと は、だから スバリスト のみならず、「自動車」 というものを考える上で、計り知れない重要な価値を持っているのである。

 私はこの本を初めて手にした時、驚愕した。

 子供の頃から解体屋でバラして組んではエンジンをかけて喜んでいた、P40型 や P52型 スバル360 を構成する、一つ一つの部品の先に、どのような人々の顔があるかも知っていた。会ったことはない ----- いや、新宿の本社から出てくる長身の男性を偶然見かけたことがある ----- 信じられなかった。とても恐れ多くて声をかけることすらできなかったが ----- 私はどんな有名人だろうが、社長だろうが政治家だろうが、そんな 「気持ち」 を持ったことは一度もない 「天邪鬼」 なのだが ----- スバル を通じて、その人たちの 「考え方」 には、ずっと長い時間 ----- そして今も ----- 触れている。

 その人々の 「想い」 に、当時から遠く時を隔てた現在という時に、しかも 「より深く」 触れることができる。これを 「奇跡」 と呼ばずに何と呼べばいいのだろうか。

 私は心からの敬意と感謝を込めてお礼を申し上げたい.

 ありがとう。

 そして、その序文の結びの言葉について謹んて申し上げたい。

  「それは世界中の誰にも 「不可能」 です。なぜなら、この本こそ、その 「答え」 そのもので、そしてそれは、あなたにしかできない 「仕事」 だからです。」 と。

 人は一度きりの人生を生きる。その人生で、ここまで深くひとつの 「仕事」 を極めることができる人を、私はこの人の他に、数えるほどしか知らない。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(17)

ちょっとお題が スバル360 ということになると、どうにもとりとめがなくなってしまって自分でも困ってしまうのだが、製作とディテールについて書いておきたいと思う。

 まず、あまりプラスティックキットを作り慣れていない人が、このキットを買って、スバル360 第二回日本グランプリ ウィナー を手にすることは、まずムリである。

 どうして Web で、この ハセガワ の 第二回 日本グランプリ と コンバーチブル の作例の紹介がないのか、今回製作してみて良く分かった。

今回は製作にかけられる時間的余裕が限られていて、製作途中の画像を抑えることができなかったため、記述に頼ることになる。申し訳ない。

 まず、レジンによるスペシャルパーツである、フロントフードとエンジンフードが、「縮み」 が大き過ぎて、ボディとの取り合いに 1o 以上の隙間が空いてしまう。

 これを修正するためには、そのレジンパーツをボディに接着した上で、ボディとの取り合いに生じた 「隙間」 を、一旦 パテ で埋めて、改めて筋彫りをするしかない。これは スバル360 の場合、かなり厄介である。

 直線なら定規を使ってまっすぐに筋彫りはできるが、曲線は基本的にフリーハンドで切り出さなければならない。だから、当然思った位置にカッターの刃がいかないことも度々ある訳で、その場合、改めてその失敗した筋彫りをパテで埋めて、固まってから筋彫りをし直すことになる。

 スバル360 の場合、ボディは曲線しかない。しかも筋彫りが必要な個所は、丸みのついたパネル同士の 「谷間」 に当たっている訳で、筋彫りの深さ、太さ、曲線をコントロールするのが非常に困難だった。

 だが、これは ハセガワ を責めるべきではないだろう。プラスティック成形の新金型でこのパーツを新造する場合、このキットのパッケージに記載されたメーカー希望小売価格は絶対に実現できないし、そうなれば必然的に買い手もいなくなってしまう。

 もう少しレジンを扱い慣れてくれれば・・・とは思うけれど、「プラスティックキット冬の時代」 に、こうしたスペシャルパーツを付属してくれるだけでもありがたいことだ。

 「お金」 だけでは手に入らないものも、世の中にはあるのだ。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(18)

今回の製作に当たって、本当は 「スバルの間」 から資料を引っ張り出したかったのだが、それも叶わなかったので、現存するこの 第二回 日本グランプリ ウィナー を所有している K.I.TサービスFacebook をその仕様の準拠とさせて頂いた。

 室内でも結構手を加えなければならない部分が多い。まず当時の ミツバ製 と思しき ウッドステアリングは、付属していないので、付属の ヤングSS の ステアリング にプラ板でスポークを1枚切り出して、スポークの位置とオフセットを調節している。

インストルメントパネルは、左側のラジオスペースの切り出し、その上に乗っかっている大径のクロームリム付タコメーターはランナーの切り出しの中央を削ってリム部分を再現、ハセガワ の メタルフィニッシュ を貼付、写真からデカールを製作して文字盤を再現した。その隣のルームミラーは、付属部品の加工である。

 インストルメントパネル全面中央のタンブラースイッチは、改めて確認してみると左側は実車では取り外されているようだが、ランナーの炙り伸ばしの丸棒 を切り出して、その先端を少しずつライターで炙りながら、その形状を再現している。

 また、ハセガワ のキット自体が、スバル360 の 最終型である P52型 がモデルとなっているので、シフトレバー横の副変速機のシフトレバーが付属しないので、これも ランナーの炙り伸ばしの丸棒 による自作である。

 シフトレバー後方、フロアトンネル上にある、チョーク、燃料コック、ヒーターのレバーは、そのままではまったくリアリティがないので、ランナーからベースを削り出して、レバーを加工した上で、ベースにレバーを収納する構造にした。若干実車に比べて、まだ形状と大きさには不満だ。

 画像では見えないが、インストルメントパネル下ステアリングシャフト左側には、大久保氏 の回想 で、「あわや」という状況を引き起こした、エンジンルーム内に水を噴射する ウォーターインジェクター のノブがあるのでお忘れなきよう。

 シートは、付属しているものは ヤングSS の筋彫りとなっているので、ポリエステル・パテ で筋彫りを埋めた上で、耐水ペーパーで形状を整え、改めて筋彫りをやり直している。シートカラーは当時流行った 「コーラルグリーン」 で、タミヤカラー スプレー TS-41 コーラルブルー を下地に光沢を落とすために筆塗りで色を薄く乗せている。

エクステリアへ移ろう。

 件のエンジンフードだが、動画を見て頂ければお分かりのように、実車では、この8本の横スリットをテコのようなもので起こして開き、苦しいエンジン冷却に対応している。

 クォーターピラーに装着された、スクープ付エアインテークは、ホワイトメタルによるスペシャルパーツで、サーフェイサーを吹いて、表面を 2000番 の耐水ペーパーで仕上げ、ハセガワ メタルフィニッシュを貼付した。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(19)

エンジンフード上部2ヶ所に備わるヒンジは、筋彫りでは邪魔になるので、削り落とした上で、塗装完了後にランナーから削り出したものを塗装して接着。

 また、初期型 スバル360 の特徴である、小さなテールランプと外側に突出した給油キャップは、それぞれ新造クリアーパーツ。真鍮削り出しのスペシャルパーツである。

 もう、これを世に出してくれただけで私は嬉しい。静岡に足を向けて寝ることはないだろう(笑)。

 リヤフェンダー両側に貼り付けられた縦長のガムテープは、本来はこの位置にリフレクターが装着されていて、それを取り外した穴を塞いでいるものだ。

 リヤバンパー前両側に貼り付けられた大きな正方形のガムテープは、多分、軽量化のためにリヤフェンダー内側に存在するリヤフェンダー固定用ブラケットを取り外しているはずなので、振動でバンパーとリヤフェンダーが緩衝して共振音が出るのを抑えるためのものだろう。

 クォータパネル両側に描かれる 「Estrellita 12 K111」 については、私も生まれてこの方ずっと考え続けているのだが、未だに意味が分からない。「12」 とは、僚友である 小関氏 のドライブする 12号車 であり、「K111」 とは、無論、スバル360 の 型式名 である。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(20)

「Estrellita」とは、スペイン語 で 「小さな星」 という意味だそうだ。当然 六連星 に掛けたものでもあるだろう。1914年 に マニュエル・マリア・ポンセ が書いた、郷愁を誘う、甘く切ないがあることは知っていた。だから、とある男が恋している美しい女性の名前なんだろうなと勝手に解釈していたのだが、歌詞を見る限りどうやら恋をしているのは女性の方らしい(笑)。

 それはともかく、当時は 「三種の神器」 として、テレビ・洗濯機・冷蔵庫 が一般にも普及し始めたころで、特に団塊の世代の方などは、この曲をご存知の方は少なくないと思う。当時、ラジオやテレビで流れて流行っていたこの曲から、鈴鹿をライバルに圧倒的大差をつけて、1 - 2 で優雅に疾走する スバル360 の姿を思い描いたのだろうか。

 「12号車・・・わたしはあなたがいないと生きていけないのよ」みたいな。

 でも、結構ロマンチストの(失礼)親分なんかこの曲口ずさんでそうだよね(笑)。機会があれば、このペイントの由来について 大久保氏に お聞きしてみたいものである。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(20)

第二回 日本グランプリ仕様 の標準車との差異はまだある。

 例えば、標準車のドアサッシの周りのボディ側には、ドア開閉時にリーフからの雨滴の落下を防ぐレインドリップモール(雨とい)が、「スバル360大全」によれば、62年後期型 デラックスより新設されたことになっているし、63年後期型 からは,、レギュレーターによってドアガラスを全面開放できるように改められている。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(20)

だから、モールドされた レインドリップモール は削り落としてやらなければならないし、ガラスは前後引違い式の 3枚ガラス に作り替えてやらなければならない。

 レインドリップモールはともかく、ガラスは最後まで悩んだ。段差を再現するだけなら、表面の一部を削ればいいが、引違い式のガラスには、センターでガラス同士が重なる部分ができる。

 だから最初は透明プラ板を切り出して、と考えていたのだが、これがやってみると、初めから分かり切っていたことではあるのだが、線接着で強度が確保できない上に、クリヤーパーツ接着剤を使っても、とてもサッシにきれいに接着できそうもないことが分かった。

 おまけに、サッシのレールに乗せるためには 0.2o の透明プラ板を用いなければならず、これがひどくリアリティに欠けたものになることも分かった。

 さてどうするか。

 そこで、付属のドアガラスを、前から2枚目に当たる内側の部分を金ヤスリで削り、3枚目の外側に当たる部分を同じく金ヤスリで削り、重なりの部分を残すことで、前後引違い式のドアガラスを再現している。仕上げは 4000番 の耐水ペーパーとコンパウンド。それから3枚目ガラスの前方には、スチール製のモールがはめ込んてあるので、メタルフィニッシュでこれを再現した。

 それから、P52型 と 第二回 日本グランプリ ウィナー のベースとなっているはずの 64年後期型 では、ドアノブが全く違うものなので、付属のドアノブを少し削って形状を仕上げてやらなければならない。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(21)

フロント部分は、これまでダラダラと書き連ねてきた他の部分より手を加えなければならない箇所はずっと少ない。

 確かにフロントフード周りの筋彫りは大変だが、それさえ終わってしまえば、左側フェンダーミラー部、およびワイパー取付穴の穴埋めと、フェンダーのサイドフラッシャーランプ、フロントカウルのワイパーウォッシャーノズルの削除程度である。

 注意しなければならないのは、ワイパーの取り付け穴で、1965年8月発売の スバル360 26型 以降は、ワイパーは、車両前方から見て 左支点 での動作となるのに対し、この 第二回 日本グランプリ ウィナー では、スバル360 64年後期型 がベースとなっているため、右支点 となっている。

 私は今回これを忘れていて、ボディカラーを乗せて、デカールを貼り、UVカットクリヤー を乗せて丹念に研ぎ出し、コンパウンド仕上げまですべて終わって、当のワイパーの取り付けの作業に掛かるまでこれに気が付かなかった。

 当然、美しく仕上がったボディには、無様なワイパーの穴が二つ開いている。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(21)

もうデカールも貼り込んでいるから、パテは使えない。

 そこで、例の ランナー炙り伸ばしの丸棒 を、その穴に突っ込んで、ぴったりの 「フタ」 を切り出し、裏から瞬間接着剤で固定して、筆でボディーカラーを乗せ、研ぎ出しで面を揃えるという、超難易度A級ウルトラC (← 自己評価)の裏ワザでこれに対処した(笑)。

 もし、このネタを読んで、 第二回 日本グランプリ ウィナー を作ってみようかな、と思った人は、ここは要注意である。

 ちなみに、標準車とは違う形状の片側のみのミラー、そして件のワイパーとも、ホワイトメタル製のスペシャルパーツである。

バンパーは、残念ながらフロント、リヤともそのままではまったくフィット感に乏しく、ボディラインに沿わないので、この ハセガワ の スバル360 を作る人は、どのモデルでも加工が必要だ。

 具体的には、長さは十分なので、ドライヤーなどで丁寧に熱を加えながらボディにフィットさせていくことである。

 ここの部分のプラスティックは、他の部分と比べると、なぜか脆いので、焦ると ポキッ とやってしまうので注意。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(22)

また、バンパー が フロント、リヤ とも、両側のバンパーエンドを、ボディ側の受けに接着する構成になっているのも理解できない。実車ではきちんとバンパーブラケットによってボディに固定されている。確かに ヤングSS では両側バンパーエンドにゴムキャップが付くが、その場合でも、実車の雰囲気をお世辞にも再現できているとはいえない。

 だから私はいつも、このボディ側の受けを切除した上で、実車のバンパーステー位置に、ランナー炙り伸ばしの丸棒 をバンパーに穴を開けて固定し、ボディ側に受けの穴を開けて接着している。

 バンパーエンド両側がランナーと繋がっているので、メッキバンパー仕様の場合、一部メッキがなくなってしまうのも中級レベルまでのモデラーには困るところだろう。気になる人は、メタルフィニッシュを貼付して仕上げるべきだと思う。

 まあ、作業としてはそれほど難易度は高くないから、これも 「鍛錬」 と割り切って取り組んで頂きたいと思う。

 この 第二回 日本グランプリ ウィナー では、フロントバンパー形状が標準車とは異なっている。つや消し黒色塗装であるばかりではなく、ナンバープレート取付用の凹みがないのである。おそらくナンバープレート取付用ステイだけでなく、バンパー内側のナンバープレート固定用のビスの受けとなる 溶接ナット も省くことで軽量化する意図があったのだと思う。

 リヤバンパーを加工して取り付けたものだろうか。興味深いところである。

シャシーについては、時間的都合と、そのために資料が集まらなかったため、ひとまずストレートに組んでいる。本来なら、大久保 氏 の回想の中にある、チャンバーなどの形状も再現できればなおよかったのだが。

 ただし、標準車の車高ではあまりにも間が抜けて見えるし、リアリティにも欠けるので、4mm、つまり 実車でいえば 10p弱、落としている。

 リヤはアンダーカバー一体のリヤアクスルとシャシーの取り合い部分を削ればよいのだが、フロントはトーションバーケースから伸びるトレーリングアームでフロントホイールハブを吊る、実車のフロントアクスルを忠実に再現しているので、固定部分の強度確保のために、若干頭をひねらなければならないと思う。

 今回、ニュルブルクリンク24時間レース 2014 にかこつけて、一つネタを書いてみようと思ったのには理由がある。

 実は、この 富士重工業 がその雪辱を見事に果たした 第二回日本グランプリ から、今年がちょうど 50年目 に当たるのである。

 1963年 第一回 日本グランプリ の時、スバル360 の ラップタイム は 4分15秒 だったそうだ。1964年 第二回 日本グランプリ で、この 大久保 氏 のマシンが記録したファステストラップは 3分24秒、そして、小関氏 の マシンは 3分 22秒 を記録している。

 1年 という時間が必要だっとはいえ、ほとんど 1分 もラップタイムを短縮してしまったという 「事実」 は、動画を見てもお分かりのように、ライバルの部分だけがまるでスローモーションではないかと感じてしまうほどだ。

 「物事に取り掛かる前に、考えて考えて考え抜け。そして行動を起こしたら自分の意志でつらぬけ。」 というのが 富士重工業 の 技術者たちの受け継ぐ伝統だが、「転んでもただでは起きない」 というのも、富士重工業の人々だけでなく、スバルで戦う人々、そして我々スバリスト が守り続けている大切な 「スピリット」 である。

 だから 「勝つためだけに」 リヤデフを取り払った、ケチ な レーシングスペシャル など、作る 意味 がない。「何のためにモータースポーツを戦うのか?」 という 「命題」 は、そのメーカーの 「クルマ作り」、ひいては 我々ユーザー に対してどのようなクルマを届けたいのか、という、メーカー自身の 「哲学」 に関わる 「重要な問題」 だ。

 「戦うスバル」 の先には、いつも我々ユーザーが手にできる スバル があるのだから、「そのクルマ」 で堂々と戦って勝ってもらわなければ困る(笑)。

 歴代の スバルたち が、きちんとそのように戦い、勝ってきたように。

 今年もまた ニュルブルクリンク24時間レース の季節がやってくる。

 楽しみである。私は指折り数えてその日を待っている。

ハセガワ スバル360 1964年 第2回 日本グランプリ T-1クラス ウィナー(27)

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