ハセガワ 1/24 スバル レガシィRS 1992 スウェディッシュ・ラリー
ハセガワ 1/24 スバル レガシィRS 19921年 スウェディッシュラリー (コリン・マクレー/デレック・リンガー) |
というわけで、ハセガワレガシィRSのWRCバージョンのバリエーションのご紹介。
今回も、作例は製作が10年以上前のもので、ジャンクヤードからの生還。したがって、デカールの変色、パーツの脱落など、まああまり体の良いものではないので予めご承知置きを。
それこそ数えきれないくらい作成したこのレガシィも、作った先から嫁いでいってしまうのでしょうがありませんなぁ〜。それだけ人気は高いモデルである。
私の記憶に間違いがなければ、今回の1992スウェディッシュラリー仕様の方が、前回の1991 RACラリー仕様より発売が早かったように思うが、再発売の頻度はドライバーの「人気」に比例してか、この1992 スウェディッシュラリー仕様の方がダントツ。 |
サイドのイギリスの石油元売「BP」のイメージカラーであるグリーンのカッティングシートがボンネットにまで回り込んだカラーリングは、プロドライブ・レガシィ初のターマックラリーとなった、1991年WRC第5戦「ツールド・コルス」からで、F.シャトリオ/M.ペラン組は、二度のタービンブローで9位という成績に終わっている。
まだこの頃は、ターマックではランチアやトヨタに剣もホロロに打ち負かされ、グラベルでもラリー前半のSSで好タイムを連発してリードしながら、後半でマイナートラブルでズルズルと後退して・・・という繰り返しで、まだまだランチアやトヨタなどのトップチームに比べて、パワー不足に悩んでいたEJ20エンジンの出力向上とトラブルシューティングに明け暮れていた時期。STi初代社長の故・久世隆一郎氏も「毎戦がっかりして帰った」と語っている通り、スバリストとしても歯噛みしながら応援していた時期だ。 |
ちなみに、この1991年「ツールドコルス」出場のシャトリオ車は、リヤガーニッシュに「RSタイプRA」の「typeRA」ラベルとインタークーラーオーナメントを貼り付けている。
もちろんプロドライブ・レガシィはエンジンも「RSタイプRA」以上に高度なチューニングが施され、トランスミッションも標準のTY75型とは全く別物のプロドライブ内製ミッションが搭載されている訳だから、国内専用車種である「RSタイプRA」がベース車両となる必然性がないのだが、私を含めた当時のBC5ユーザーにとっては、ちょっとうれしいSTiとプロドライブからのサービスだったという「小ネタ」をここで披露しておこう。 |
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それ以前はフロントバンパーの「BP」のスポンサーマークの位置には、チェリーレッドにまみれて(?)踊るムッシュ・ビバンダム様がいらっしゃった訳である。
F-1ではパートナーであるコンストラクターをミナルディから見限られてコローニへと鞍替えした挙句に、予備予選通過も叶わずに撤退。そして、まだWRCでも思うような成績残せず「よちよち歩き」のレガシィ。
日本ではともかく、ヨーロッパでは「スバル」というブランドがあまり「いいイメージ」では捉えられていなかっただろうこの時期に、スバルのWRCチャレンジを曲がりなりにも支援してくれたBPは、スバリストにとって、そしてBC5レガシィ乗りにとってはちょっと忘れられない存在だ。
まあ、現在までに至る歴史を考えると、国際石油メジャーが流し続けてきた「害悪」というのは計り知れないものがあると思うとちょっと好きにはなれないのだが、この頃のレガシィのボディに貼られたスポンサーマークはBPとミシュラン、IHI、NGKそれにビルシュタインだけなのだ。
さらに交代した社長が日産ディーゼルから来た「コストカッター川合」である。成績低迷が続けばWRC撤退はいつでも必然と思えた。
今から思えば、何もかも笑い話にしかならないが、なけなしのカネをはたいて、当時のあの「センスの悪い」白とピンクのSTiブルゾンやらTシャツやらを毎月買い込んだり、オイルはBP「バービス・ストラーダ」をペール缶で、街乗り用のタイヤはミシュラン・パイロットと「部品指定」して、ささやかながらスバルのWRCチャレンジが続くようにひたすら祈ったものだ。
まあ、そこから1995年にスバルはタイトル獲得、さらにマニュファクチャラーズ3連覇を果たして、永らくWRCのトップコンテンダーとして君臨できたことは、スバリストにとってはまさに望外の喜びだったのだが・・・。
閑話休題。ところで、このスウェディッシュラリー仕様のデカールの品質の悪さはつとに「有名」で、そもそもの発色が悪い上に、私が現在手持ちの7個すべてが未開封のままデカールが変色しているのだ。
このあたりはハセガワもちゃんと分かっていたのかもしれない。というのは、デカールでは定評のある「カルトグラフ社」製デカール付を発売してきたからである。 |
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元ネタは右の「BOXERSOUND Vol.12 APRIL 1992」に掲載の飯島俊行氏の写真。当時は確か「AUTOSPORT」にも掲載されたように記憶しているのだが、数あるプロドライブ・レガシィのカットの中でもベストカットだと思う。
手前の左コーナーにフェイント・ブレーキングで急激に減速しながら飛び込んでくるマクレーのレガシィ。
レガシィのファイティングポーズだ。
実際、BC5を速く走らせるにはアクセルを緩めることはできない。5,000回転を下回ればレスポンスが鈍るし、リヤの挙動が不安定になるからだ。踏んでいればニュートラルからオーバーステアまで思いのままだ。だからマシンをスライドさせて高回転をキープする。
この写真を見ると、そんな自分の現役時代の思い出が鮮やかに甦る。
「振り回して乗る」という意味では、きっとマクレーのドライビングスタイルにぴったりのクルマだったかも知れないな、などと勝手に考える。
飯島氏はスバルのWRCチャレンジの初めから、貴重なWRC最前線の情報と美しく迫力溢れる写真を伝えてくれた。本当に心からの感謝の念に堪えない。ありがとうございました。 |
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上がカルトグラフ。右が現在私の手持ちの中では最も状態がいいと思われる通常版。
いかにカルトグラフのデカールと通常版の発色の違いはお分かり頂けると思う。右の通常版では、ゼッケンなどの白抜きの部分を見て頂けば明らかだが、すでにデカールの変色が始まっている。
だから、モデル自体の今後の再発がなんとも不透明なので、もしこれから通常版を組まれる方は、「STUDIO27」から「1992年1000湖ラリー」仕様のデカールが発売されているので、付属のデカールの使用は最小限に留めた上で、しっかりとクリヤー上塗りとUVカット処理を施して頂きたいと思う。 |
ハセガワ 1/24 スバル レガシィRS 1993 ニュージーランド・ラリー ウィナー
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こちらもジャンクヤードからの生還。しかもボディだけしか残っていないので、上のスウェディッシュラリーのシャシーにそのボディを被せただけである。あくまで紹介ということでお許し頂きたい。
1993年秋、福岡の某商業施設内にあったショールームで、STiの広報誌「BOXERSOUND」vol.18を手にして、レガシィRSのボンネットの上でシャンパンファイトに興じるマクレーとリンガーのカットを見たとき、不覚にも人目を憚らずに涙を流してしまったことが懐かしく思い出される。
これも「10年選手」でUV処理はしていないのだが、各部のデカールの変色は上のスウェディッシュ仕様より少ないことが分かる。ちなみにこのニュージーランド優勝車のホイールは、テクノマグネシオではなくて、スピードラインの8スポークホイールなので、完璧を期すなら、同じハセガワのインプレッサ555から拝借してくるより他にないと思う。 |
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まずこのモデルを手にしたときに明らかに変なのは、ツールド・コルスのカラーリングのレガシィRSがグラベルタイヤでニュージーランドと思しき丘陵地帯のグラベルを疾走しているパッケージの絵だ。 |
すでに盛り上がっていたF1人気の際にも、本来あるべきタバコメーカーのロゴのデカールがマシンに同梱されないことは問題だったが、アフターマーケットのデカールが出回っていたので苦労することはなかった。
しかしF1ほど盛り上がっている訳でもないWRCの場合はそれなりに苦労させられることは多かった。ましてや、ようやく1勝挙げたに過ぎないスバルだったら・・・。
初めてこのモデルを手にしたのが大型おもちゃフランチャイズだったのも大間違いだった。
入荷した12個をすべて買い上げてクルマに積み込み、1個を開けてみると「555」のロゴはもちろんだが、困ったのはイベントのメインスポンサーである「Rothmans」のロゴがないことだった。
何か適当に流用できるデカールの妙案も浮かばないまま製作に掛かる。
実は上の作例では、「555」のデカールはすべて精密ナイフで付属の黄色いシートデカールを切り刻んで作っている。まだパソコンでデータ作成をしてプリンターでシートに焼き付けて・・・なんて便利な時代ではない。 |
確かコンビニのコピー機で1%刻みでコピーした実車写真をハトロン紙か何か薄い紙にトレースして、モデルに当ててちょうどよいと思える大きさのコピーを付属のイエローのデカールシートに当てて命がけ(?)で切り刻む。
はっきりいえば、一度やったらもう二度とはやりたくない作業である。
そんな手順を踏んで、充分吟味したつもりでも、大きさは実際より大きかったり小さかったりで、まあ、あまり納得できる仕上がりにはならなかった。
ボンネットとサイドの「Rothmans」ロゴは諦めた。ここまで小さいともはや輪郭がコピーではきちんと出ないし、試しに切ってみても「555」以上にちぐはぐなものしかできなかった。
プロのモデラーの偉大さをつくづく痛感させられた一瞬だ。
では件の「Rothmans」ロゴはどうしたのか?これには衝撃の後日談がある。
2,3年後、仕事の片手間にWRC関連のモデル製作でお小遣いを稼いでいた私は、模型屋の主人とふとしたことからこのニュージーランド仕様の話になった。
「インプレッサ555用のデカールでは大きさが微妙に違っていて、しかも小さい「555」のデカールはない。シートを切り刻む気力がないので押入れの肥やしになっている」と私が言うと、その主人は途端に気の毒そうな表情になって、店の奥に行って何か漁っていたが、数枚の紙を手に戻ってきた。 |
「じゃあこれは知らない?」
信じられなかった。数年間散々探し回って、ついに出会えずになす術なしと諦めていたモノが目の前にあるのだ!
「天にも昇る気持ち」とはまさにこのことである。
やはり「STUDIO27」のデカールがある今となってはこれも笑い話だが、その後は立ち寄る模型屋という模型屋で、このデカールについて尋ねて、さらに余計な出費を重ねながら、手持ちのニュージーランドラリー仕様の全数分を確保したことはいうまでもない。
今思えば、「何てバカなことを・・・」と笑ってしまうようなことでも、後になってみれば自分にとって貴重な経験の蓄積に欠かせないことだったりするものだ。
単なる「ファーマーズカー・メーカー」だったスバルが、群馬の片田舎から突然「世界一武道会」に打って出たのだ。苦労せずに勝てるようになる訳がない。
そして、この苦しい時期を一緒に闘った多くの「仲間たち」が鬼籍に入りすでに亡き人となっている事実に、ときどき言い知れない寂しさと目の前が暗くなるような想いが募ることがある。
ロジャー、ポッサム、久世隆一郎氏、リチャード、そしてコリン。 |
あの時期、レガシィは走らなければならなかったし、打ち負かされて黙って引き下がる訳にはいかなかった。
クルマは人が走らせるものだ。走らせ続けたいと願う人々がいなければ、この人々のあれほどの情熱がなかったら、「あの季節」に興奮を覚えることはなかったし、感動を共有することもできなかったに違いない。
その人々に改めて心からの感謝を申し上げたい。 -------- ありがとう。 |
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